私たちの教会では、第一主日の主の晩餐の際に、教会の信仰告白を1項目ずつ読んでいます。1月は主の晩餐がありませんでしたが、2月から再開いたします。
6つめの項目は「礼典」です。
6. 礼典
教会の礼典として、バプテスマと主の晩餐を行います。
バプテスマは、イエス・キリストを主と信じ告白する者にのみ授けられます。キリストが十字架に死に、復活されたことによって、私たちも自らの罪の身が十字架に死に、復活のキリストの新しい命に与ることを象徴するものです。それ故に、私たちは幼児洗礼を否定し、バプテスマの形としては浸礼を守ります。
主の晩餐は、パンとぶどう液を用いて、イエス・キリストの十字架における贖罪の死を記念するものであります。それ故に、主の晩餐は主を信じ告白する全ての者と共に行ないます。また、主の晩餐において、私たちは終末における主の再臨を待ち望みつつ、交わりを固くし、宣教へと遣わされることを信じます。
参照聖句:
使徒言行録 8:36 - 39
(8:36) 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
(8:37†38) そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
(8:39) 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
ローマ 6:3 - 11
(6:3) それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
(6:4) わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
(6:5) もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
(6:6) わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
(6:7) 死んだ者は、罪から解放されています。
(6:8) わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
(6:9) そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
(6:10) キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
(6:11) このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
第一コリント 11:23 - 29
(11:23) わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
(11:24) 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
(11:25) また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
(11:26) だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
(11:27) 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
(11:28) だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
(11:29) 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
次回は「7. 主の日」をご紹介します。