松本蟻ケ崎教会の信仰告白、5つめの項目は「教会」です。
5. 教会
キリストの体なる教会は、聖霊によって信仰と愛の交わりへと呼び出され、この世の救いのために立てられた新生者*の集まりであると信じます。
全ての信徒は福音宣教に等しく携わります。また、教会政治は会衆主義によって行われます。各個の教会は、相互に支配や従属の関係ではなく、自主独立ですが、同時に他の教会との協力を喜ぶものです。
*新生者:主を告白してバプテスマを受けた者
参照聖句:
第一コリント 12:12 - 31
(12:12) 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
(12:13) つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
(12:14) 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
(12:15) 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
(12:16) 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
(12:17) もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
(12:18) そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
(12:19) すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
(12:20) だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
(12:21) 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
(12:22) それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
(12:23) わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
(12:24) 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
(12:25) それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
(12:26) 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(12:27) あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
(12:28) 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
(12:29) 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
(12:30) 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
(12:31) あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
エフェソ 1:22 - 23
(1:22) 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
(1:23) 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソ 4:14 - 16
(4:14) こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
(4:15) むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
(4:16) キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
次回は「6. 礼典」をご紹介します。